Aiko Takahashi
Le vent, la vague, l’étoile
スロベニアのノヴァ・ゴリツァを拠点に活動するイタリアのミュージシャン「Aiko Takahashi」の新作をSchole Recordsよりリリースします。(以下、アーティストによるセルフライナーノーツより)
今作『Le vent, la vague, l’étoile』の着想が生まれたのは、マルセイユにあるル・コルビュジエ設計の集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」の屋上でした。
ゆっくりとした周期で息づく地中海、風に溶けていく遠くの人声。光と塩の気配、そしてかすかな運動に満ちたその場所で、本作の骨組みとなる楽曲の輪郭が初めて姿を現しました。
この作品は、特定の場所をただ描写したものではなく、その土地の「空気そのものの中に佇む」ことを試みています。水滴のように集まる小さなピアノの旋律は、束の間の星座を描いては、市街地を包む陽灼けた丘へと吹き抜ける海風に乗って解き放たれていきます。ここでの「記憶」とは過去を回想するものではなく、ひとつの「気候」として機能しています。旋律や動きが繰り返し、移ろい、静かに消え去っていくための場なのです。
楽曲は、わずかに異なるテンポで重なり合うピアノのラインによって展開し、微細なフェージング(ズレ)と宙に浮遊するような和音を生み出します。潮の満ち引きのように巡ってくるパターンもあれば、見えない潮流に運ばれて自由に漂う音もあります。削ぎ落とされたひとつひとつの音(声)は、単体でも独立して成立するほど軽やかでありながら、それらが交差することで、響きと空気と時間によって築かれた「生きている建築」のような居住空間を作り上げています。
地中海文化において、海と陸が出会う場所は古くから「交歓と交差の場」とされてきました。風は香りを、言葉を、そして歴史を国境を越えて運びます。本作の楽曲構造もまた、そうした透過性を映し出しています。内と外の境界は溶け合い、録音された部屋の空間は多孔質(通気性を持つ状態)となり、周囲の環境が楽器の中へと入り込み、楽器はそれを変化させて送り返します。
本作の即興表現は、多様な音楽的系譜からインスピレーションを得ています。
エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゴブロー(Emahoy Tsegué-Maryam Guèbrou)の祈りのような親密さ、スティーヴ・ライヒ(Steve Reich)のフェージングによる時間的移行、日本の「環境音楽」が持つ空間的感性、シメオン・テン・ホルト(Simeon ten Holt)やモートン・フェルドマン(Morton Feldman)の引き延ばされた時間軸、そしてレデリウス(Roedelius)の明晰な抒情性。しかし、本作を一貫して貫く理念は「削ぎ落とすこと(引き算)」であり、音が存在を主張することなく、ただそこに訪れ、留まり、そして去っていくことを許容しています。
窓を開け放ち、自宅で録音された本作は、周囲の空気、遠くの気配、微細な響きのすべてをそのまま楽曲の織地として受け入れています。ここに残されているのは、単なる「ある場所の記録」ではなく関係性の領域——記憶と現在、構造と漂流、そして「聴くこと」と「ともに佇むこと」のあわいです。
これらの楽曲は、能動的な集中ではなく、「共生(cohabitation)」という聴き方を提示しています。聴き手に向けて演奏されるのではなく、天候や光、あるいは肌を撫でる穏やかな風のように、聴き手のすぐ傍らでただ静かに存在しているのです。
